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2026.04.14

遊牧騎馬民族と中国史


 ここで書いたことがあったかしらん。

 この 1 年半くらい、ユーラシアの草原地帯 で活発に活動していた 遊牧騎馬民 について書かれた本を何冊か読んでいまして。
 新しい知見と得た視点に、目から鱗の思い を繰り返しています。


 大きく眺めると、山地と草原の境界地帯に多くのマークがある。マークについては後段で。


 ユーラシアの遊牧騎馬民が活動した範囲は、西は黒海北岸やウクライナからロシア南部を通って、遊牧騎馬民の発祥地たるカザフスタン、ウズベキスタン、そしてウイグル、モンゴル高原、その東端を成す大興安嶺を超えて、河北省、吉林省、黒竜江省までに。
 もちろん内モンゴル地域も含みます。(赤囲いの地域)


 ユーラシア 大陸を貫く雄大な草原ベルト で、様々な部族が勃興して活発に活動し、強大な王国をも築いていたんですね。


 知らぬ人がいない有名なところでは、イェケモンゴルウルス。(大モンゴル国)

 モンゴル高原北部に活動していたモンゴル部の チンギスカン が築いた大帝国で、西はウクライナやロシア南部、シリア、イラク、イラン辺りまで。東は内モンゴルに及ぶ 大帝国
 子の第二代は王の中の王たるカアンを称し、孫の第五代は南宋を倒して中国本土全域を支配し、直轄領 大元国 を成しています。

 もっともっと早い時期。紀元前には集団匈奴が猛烈な威を振るって、始皇帝の や高祖の と激しく戦っている。
 匈奴の前にも地域単位で王権を築いて威を振るった集団がいくつもありますが。匈奴は 格別に強大 な勢力だったらしい。

 以来、鮮卑柔然高車ウィグル・カガン朝キルギス(現キルギスにあらず)、突厥キタイ(契丹)などなど勃興 しては(主に跡目争い気候変動で)衰え て、次々と 入れ替わっていった ようです。
 覇権集団の衰退期には各地の複数集団が互いに激しく争って、そのうち一つの集団の下にまとまり、次の覇権集団になっていったらしい。

 ここでへぇ~思ったのは。

 例えば、台頭する鮮卑に惨敗した匈奴の中心氏族が西方へ逃げ去った後、残った匈奴遺民の部族が 鮮卑に服属すれば鮮卑になる こと。

 内モンゴル中南部のフフホトを中心に活動した鮮卑拓跋部は、後に代国から北魏王朝を建てるに至って「鮮卑の正統」を称しましたが。
 発掘と DNA 解析が明らかにしたところでは、拓跋部の 中心氏族はバイカル湖南部地域に起源 があって、南下し、これまた遊牧騎馬民の活動が多かった陰山山脈東麓のフフホト辺りで鮮卑に服属する 新たな集団拓跋部』を成したと観られるそうです。

 鮮卑に服属すれば鮮卑 ですが、「鮮卑の正統」は詐称だったらしい。

 なお、鮮卑の故地はモンゴル高原の東端から大興安嶺の南部。勃興した鮮卑中心氏族の活動地は 北京の北東方向 で、河北、遼西、吉林、黒竜江といったあたり。匈奴に圧迫されて東進したのようです。
 北京の北東方向は、さらに後の女真族満州族の故地でもある。女真族は 金国 を、女真の後裔たる満州族は統一王朝 を建てていますね。

 ちなみに バイカル湖の周辺は遊牧騎馬民史に重要な地 で、いくつもの部族名が入れ替わり立ち替わりに出てくるところ。チンギス・カンも征伐に赴いています。


 当時を記した文献資料がろくにないのも大きな原因ですが。ここ、旧ソ連ですから。そして現ロシアですから。発掘調査が十分になされていなかったり、為されても公表が政治的だったり、西側の学者には情報を含めてアクセスしにくいようで、具体的な地名 が本に出てきません。
 よって地点マークが空白になっています。

 ちなみに 現モンゴル国内 も、現代的な発掘調査が多数行われるようになったのはソ連から(事実上の)独立を果たした 近年のこと のようで、 Google map での表示が十分にありません。
 漢文資料イスラム圏の文献現モンゴルで表記や読み方が異なっているのが底にあって、本によって地名の記法が異なるし、 map 上でロシア語文字表示だったりもあって、 検索では特定できない んですね。

 マークした地点は、けっこう根気よく Google map の衛星画像を調べて、「ここだな」とか「ここかなぁ?」「ここもか?」で打っていきました。
 本の記述、例えば「〇〇県のセレンゲ川北岸にある荒涼とした平坦部に… 」「囲壁は方形で…」や図を頼りに。


 

 

 部族集団名の話しに戻ると。

 モンゴルも、実に多くの民族集団や国を服属させていますが、服属すればモンゴル。西方の青眼栗髪な人たちも、東方の黒髪黒目の人たちも、みんなモンゴル

 もちろん、匈奴でも鮮卑でもモンゴルでも、元々の中心氏族は高貴かつ特権的な王侯一族となって血統を重んじますが、服属民も帝國を構成する立派な一員 だったらしい。

 中でも大モンゴル帝国がとりわけハッキリしていて、地域・人種・民族・風俗・宗教をいっさい問わず 多種多様な人々 が『モンゴルとして 活躍 していたそうです。
 まぁ、服属民をただ力で圧伏していたら肉体労働以外に人材資産を活用できないし、しょっちゅう反乱が起きてコスト割れですものね。

 行き着いた先が、地中海地域から北京まで陸海の 交易路を整備 して通行の 安全を保証 した巨大な交易圏ユーラシア巨大経済圏 です。
 それを支える 経済官僚は、大元ウルスのカアン側近を含めて イスラム商人 だったそうな。

 イスラム教がイラン北東部のイスラム国ホラーサーン朝を通ってカザフスタン南部まで進出していたそうですから、かつてソグド商人と呼ばれた人たちじゃないかしら。


 そして、読んでいてまた感じたこと。

 遊牧騎馬民と中国史は 切っても切り離せない

 中原の中国王朝が、モンゴル高原や内モンゴル、北京あたりより北東の地域から 圧迫を受け続けた 歴史は、本当に長い。

 秦の始皇帝は匈奴を防ぐ戦に努力しているし、漢の初代高祖は匈奴討伐の遠征で完敗している。遊牧騎馬民を防ぐための万里の長城は、いくつもの王朝が整備拡張してきていますよね。
 北京あたりから北東方面や内モンゴルの部族が建てた王朝までが、長城を拡張しているのは笑えました。

北京そのものが遊牧騎馬民族が南下してきたときの拠点)
現中国の首都が北京であること、地理的な違和感が強い)

 そしてほぼ常に、内モンゴル以北や北京の北東方面には遊牧騎馬民による国家があって、今の中国領を 統一できた中原王朝はとても少ない です。
 大元ウルスや帰ってきた鮮卑王朝の唐、女真族王朝の清など、遊牧騎馬民の出自である場合を除いて。


 同様に チベットは別の国 であって、征服できたことはない。朝貢という形で服属させたように取り繕っても、実態は対等の不戦条約と文物の交換外交音信にとどまります。
 交換と言っても、実態は多量の文物を貢ぐことで取り繕いを維持していたわけ。

 今の 新疆ウィグル方面もほぼ同じ で、恒常的に服属させられたことはありません。新疆ウィグル方面に向かう 河西回廊ですら怪しく て、漢族が西戎と呼んだ遊牧騎馬民による支配がほぼ常のこと。

 ぽてちは今の中国領が自明のものとして頭にあったから。読んでいて、中原の民族(主に漢族)による 広域王朝いくつあった? と思ったとき、新鮮な発見 に至りました。

 長く築いてきた文化や統治手法と経済的な豊かさがあって、率いる兵数が巨大でも。多量の元込め銃や大砲が威力を発揮し始めた現代より前は、馬上で弓や弩を駆使する機動力の高い軽装騎兵軍団に敵わなかった んですね。

 平安時代後期に板東で威を振るった弓騎の坂東武士団に通じるものがあるように思います。

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