八甲田山雪中行軍遭難事故に関する追記
映画の原作となった新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は 小説 だから、事実と異なる創作が入っているだろうと思っていました。
青森市街の外れにあって 遺体捜索 の出張本部になった雪畑にある、雪中行軍遭難資料館 でチラリ見た説明書きの範囲でも、異なっていたし。
ということで、帰宅後に Kindle 本を買って『八甲田山死の彷徨』の復習をした流れで、事実に即した ルポルタージュのようなものはないか?と探して読んでみたところ。
この本に書かれているものが本当のところのようです。
読んで・・・ いやー 酷い。 (^_^;)
青森第五聯隊 も、第八師団 も、陸軍中央 も。酷い。 (^_^;)
この本の著者は、第五聯隊、すなわち第五聯隊長の バカチン ぶりや 対応の酷さ をとりわけ問題視していると感じます。
読んだ限り、うん、その通りでしょう。
当時の陸軍大臣報告や少し後に出された顛末書は、青森第五聯隊長(すなわち第八師団長)に責任が無かったことにする 隠蔽と捏造まみれ だそうで。
捜索基地や聯隊等で取材して報じた新聞記事も、検閲で抹消 されて残っていない日があるそうな。
著者は事件が起こるまでの軍記録や事件前後の新聞報道、何名かの 生存者証言 を詳細に突き合わせて。
大臣報告や顛末書の 齟齬矛盾 と軍の動きとして「あり得ない」から捏造を暴き、 あり得ない程に認識と準備が不足 した行軍演習の実像を掘り起こしています。
原作『八甲田山死の彷徨』も、小説だなぁ、と思いました。
本から
一番左のマーク地点は 遺体 捜索基地になった幸畑陸軍墓地。
(最初に発見された生存者一人を除く全員が死亡と決め込んだ聯隊長の誤認識による誤判断で生存者捜索が2日遅れ、文字通り致命的。それゆえ「遭難者」捜索でなく「遺体」捜索と記した)
二番目は、急勾配に大苦労してここを越えたら異次元の深雪だったという大峠。
4 つ目は、異次元に深いパウダースノーで橇が利かず荷物隊が着いて来られなくなって予定から遅れ、この(銅像茶屋)裏の小山を登ったところで引き返しが発議される。
も、しゃしゃり出ていた(オマケのはずの)大隊長が大隊長付き見習士官に煽られて続行を命じた馬立場。(本来、判断も命令もできるのは担当の中隊長)
田代平に下りて街道を大きく外れたところにあるのが行軍目的地の田代新湯。
計画は、小説や映画にあるように「田代平を抜けて現十和田市に至る」ことでなく、小さな小屋があるだけの田代新湯で一泊露営して帰隊するのが実際だったそうです。
写真にあるような、雪に埋もれた小さな小屋を猛吹雪の下で発見できる訳ないし、210 名の露営地に選ぶこと自体が異常ですよね。如何に現地を知らず計画を策定したかが解ろうというもの。
なんとオマケに、少なくとも過去 2 年間は夏期ですら 田代街道を歩いた将校が存在せず、 2 年以上前の夏期に歩いたのが中隊長 1 名(計画と演習の担当大尉)だけ。
地形も地理も知らず、詳細な地図すら持たず、街道から大きく離れた田代新湯を知っている者は0名だったそうな。
(事件後に陸軍中央から求められて聯隊が提出したのは 20 万分の 1 の粗い地図で、それすら持って出なかったと推測している)
ちなみに、現地の人から「申し出られた 道案内を断った」とされるのは、取材で聞いた現地の人のテキトーな話しからの 誤報 記事。
現地の人々が事前に極秘な軍の予定を知るわけがなく、部隊通過時にも「どこへ行く?」等を聞ける訳がないそうな。
あまりにも杜撰な計画と準備だったことからして、小説では悲劇の主人公と描かれた担当大尉の責任も大きい、と。
弘前第三一聯隊への対抗意識に凝り固まった青森第五聯隊長が、ろくな準備をする間もない時期に実施をせっついた事が、最大の責任なんですけど。
いやー、あまりにも酷い。(^^;;;
実は逆方向に行軍を成功させた弘前第三一聯隊の担当大尉も酷いもので、自身の 功名心 で教育途上の長期下士候補生を 生命の危機に曝して後遺症を残し(凍傷)、行軍路にあるいくつかの寒村に饗応と 道案内を強いて使い捨て。
嘘を含む恫喝 で道案内を強いられた人たちも、後遺症(凍傷)で後の人生を狂わされたそうですよ。
(自身の功績を言い立てて新聞記事にさせ、さすがに左遷されたらしい)
後の太平洋戦争でコテンパンに負けた訳だわ!と思いました。(^_^;)
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