地形探検(3)真田濠と四谷濠編
あれこれ検索しながらリンクを辿りながら、また検索をしつつ。こんなのをまじまじと見ていると、時間が経つのを忘れてしまいます。
明治 7 年にあった 大久保利通の遭難 はこの位置だそうだが、どうしてこの道を? ぐるり回って紀伊国坂を上がるのが、馬の負担が最小のルートじゃね?
自転車感覚で考えても(笑)、登った標高を失って再び登ることが最小でしょう。
もしかして・・・ 溜池が、この絵図のように
本来の姿 でまだ 大きくあって 、廻り道だったとか。ならば、こっちへ回ったことが納得できる。やっぱりそうだ。
でもな~。今の平河町交差点から赤坂見附まで降りて、溜池沿いに 紀伊国坂 を登らなかったのはどうして?
紀伊国坂は急で馬にキツイけど、そうするのがわずかでも短いルートだべ?
あ。これかも。
紀伊国坂に 階段が描かれている じゃない。残っていたら馬車は無理だ。
すると、弁慶橋を渡って清水谷に入るのが 次善の策 か。ん? 赤坂見附から清水谷に渡る弁慶橋がない?・・・(また検索)
う~む、弁慶橋は まだ無かった のか。赤坂見附交差点から清水谷はムリ。
すると、松平出羽守屋敷(今の両院議長公邸)前から、いったん今のプリンス通りに入るのが自然か。私有地になって今は存在しない道が、溜池の内に沿ってあるし。あれば、それを清水谷の端まで下ったのでしょう。
あれ~? 下り口に階段が描かれている。明治7年には階段が 解消されていた?? 旧大名屋敷を次々と転用して大改変していた時代だから、あり得るよね。
でもでも。下りて(清水谷の端)から、溜池沿いに伊井屋敷を巻いて登らず、清水谷へ入ったのは なぜ?
あ~。これかな?
この絵図だと、伊井屋敷と溜池との間に道が無い。
火事とか江戸城防衛とか屋敷内施設の拡充とか、あれこれの理由で道を無くして 屋敷内に取り込んだ可能性 が、あるだろう。
譜代筆頭の伊井家 が持つ政治力からして改変の 許可を得るのは容易 だろうし、幕府が強いて待ったをかけるほど公共通行がなかったはず。
どの大名家も江戸の業務と人員が増えて、施設不足・敷地狭隘に悩んだというし。
あれこれ考え合わせると、きっと、自宅を出てから ここを通ってこの道に入り、ここを曲がって下りて、さらにここを曲がって、こちら方向へ進んでいるとき遭難したのね。すると、東門から赤坂離宮に入る予定だったのか。
んなあたりかな?
ここらの 高低と坂の状況 を、もう一度見に行ってみたい な。私有地の中には入れないけど、遠目にでも見ると何かわかるかも♪
高低を見ながら 仮定ルートを辿りに行ってみよう じゃないか♪
なんて。いつの間にか 時間が経ってしまっています。
同じようなことをしていて見に行ってみようと思ったのが、不忍池の水源だったらしき 谷田川(今は暗渠で、無い)の河道 たどり。
現 石神井川 は王子駅の下を通って隅田川に向かっとりますが、これは古の 河川争奪の結果 で、音無渓谷を通るようになったらしい。
地震で飛鳥山から崩れた土砂が谷田川方向を堰き止めて、溜まった水が音無渓谷側で決壊して、その激しい水流が軟土を削って都区内では珍しい渓谷を形成した。そんな経緯じゃないか ? と思えます。
ここらも見てみたい。
いきなりの長い閑話が休題で、ようやく地形探検@@ の話し。
見て回った順番と違うのですけど。外堀の 真田濠 と 四谷濠。
外堀は、真田 ←?→ 四谷 → 市ヶ谷 → 飯田(今はビル下に遊水槽) ←→ 神田川と、水面の標高を下げながら 巻いていくそうです。
真田濠と四谷濠に水位差があったかどうかを本から読み取れなくて、いまいち不明。
どちらも今は空堀になっていて、おまけに運動場(真田濠)や鉄道駅(四谷濠)になってしまっている。よって、境目あたりから目視で確認できません。鉄道敷地に入れなければ、チラ見しても「わからん」でしょう。(笑)
下の写真とか遠目に見た「なんとなく」の印象で、同じだったように感じています。
紀尾井坂の一部になる土橋の上
から、真田濠越しに四谷駅方向(上の写真の左方向)を見たものです。右方向の 溜池 の水面と、かなりの標高差 があります。
前に書いた溜池のことが少し違っていて、上の方にある絵図のように、いま『弁慶堀』とも呼ばれる濠とも一体の、大きな池 だったらしい。
話し戻って、真田濠が外堀で最高の水位 をもっていたこと、あらためて 納得。四谷濠も、たぶん同じ。
両濠への、その 水源 なんですが。
玉川上水 の水らしいんですね。武蔵野台地から新宿を超えて来る 尾根道(甲州街道(新宿通り))を通って、緩やかに下りながら外堀の内側へ、江戸城まで 続いてた玉川上水の。
四谷見附交差点あたりでやや下がっていますが、木製でも樋でなくて 密閉管 なら、地表敷設でも四谷二丁目交差点あたりの標高から押し通せるはず。
深い谷になって上水を分断して見える新宿駅は、明治になってから鉄道を敷設したときの掘削谷でしょう。掘削以後は、近代的なポンプやら土管やらを使って圧送で谷を越えたと推測。
となると。
もし、江戸城へほぼ水平直入する主要道である甲州街道から攻めてきた敵軍が、玉川上水を断って長く攻囲したら。
両濠が(今のように)干上がってしまいますね。防御力が低下 してしまう。
だからこその紀尾井町、番町なのかな。
右側は 御三家 のうち大きなワンツーと、譜代筆頭で 徳川軍突撃隊 の伊井。左側は将軍の直属軍となる 大番組旗本 がみっしり。
敵軍が押し寄せてくる前に、全部でなくても押し出していけば。
とは言え日野で多摩川を越えて攻め込まれるようだと、ずっと上流で断たれてしまうはず。心理的なものと言うべきかな。
実際に、幕末に 組織的な防衛活動がゼロ で、断つまでもなかったようだし。
などなど、高低がほとんど無い大手町側より面白いです。(笑)
写真を撮って、保冷ボトルの水分を摂ったのみで、次へ向けて出発。
予報最高は 27 度。だいぶ アヂかった です。(^^;;;
ジャケットは網戸だったのですけどね。やっぱりヘルメットが アヂぃ・・・
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