伊豆の国市へ(前振り編)
北条政子の実家跡。そのすぐ近く、源頼朝が配流されていた蛭ヶ小島。やっぱりすぐ近くの韮山反射炉へと行ってみました。
いきなり脱線。伊豆の国市だとか伊豆市とか。ふざけた名だと思う。もっと大きく出た奥州市とか、他にもたくさんありますけどね。
地名とその歴史に対する敬意もプライドも、さらには後世への配慮すらも、欠けらも無い阿呆な仕業ですな。
うちの近所の交番名が歴史と趣のある名から当世的な名に変わっていて、腹を立てている ぽてちです。(^_^;)
いきなりズレた話し、戻って。。。
蛭ヶ小島は、幕府執権北条家の歴史書と言える『吾妻鏡』に「蛭島」とサラリ記載されているだけで、詳細は不明だそうな。
で、江戸時代の学者が「ここでしょ」と言うてから、「ここ」という事になっているそうな。今は整備されて公園にもなっとるのですが。。。
どうやら違うらしい。
掘っても何も出てこないそうです。これは大きい。そして、江戸時代の学者が立てた説ですからね~。
北に 600 m 離れた地がそうじゃないか?との説もあるらしい。学術的な検証を行った説ではないらしいけど、ぽてち的にはそっちの方がまだ可能性が高いように思う。
近隣から「兵衛」の地名で呼ばれているそうで、頼朝が配流されたときの官職が「兵衛」だそうですよ。
蛭ヶ島公園は田んぼの真ん中にポツンだけど、「兵衛」の地は住宅がまとまっているエリアにある。
繰り返し、江戸時代の学者ですから。「配流」の言葉を過剰に捉えて、田んぼの中にポツンの土塁のような地を「ここでしょ」した可能性が高いと思うんですね。
地形、地質、河川とその常習的な氾濫域や地下水脈の深さによる乾燥の程度。古い道はこれらに強く規定されて敷かれているのが普通で、通常レベルの氾濫であれば水に浸からず、土砂崩れ等の災害可能性も低いところを通る。
有力者が住まう公的な性格を持つ居館が立つ地はもちろん、人々が住まう家が集まるところも同様です。居住適地が通例。
で、頼朝。配流の身とは言え、平安の世の貴種貴人。まして幼い身の上です。平氏政権の出先機関になる在地有力者に預けおかれた形で、慎ましくはあっても悠々自適に暮らしていたと考えるのが妥当。
15 年ほどにもなる長い歳月の暮らしで、斬首までの一時監禁だったわけでもない。監視下にあったと言っても反乱を起こせた程度のもので、田んぼの中にポツンがあり得るとは思いません。
ぽてちが「こっちの方がまだ可能性が。。。」と思う理由は、そんなところです。
いや~。いきなり話しが飛びまくった。(^^;;; 長くなった。(^^;;;
前から見に行ってみようと思っていた、彼の地。当日の朝にいきなり思いついたのではありません。前の晩のうちに、ナビに地点やルートの仕込みを終えていました。
が、ついつい夜更かしがお約束。
6 時ちょい前に目覚めたのですけどね。後でふり返ると、 2 時間半も寝たか寝ないか。なんだけど、「寝不足だから。。。」と言っているといつまでも行けない。
強行しましたです。v(^^;
朝ご飯を食べて、位置とルートを Google map で再び検討して、バッグを準備して、現在気温と予報気温を確認して着ていくものを決めて。。。
6 年くらい前に買ってテストしただけで使わずにいた電熱インナーを再びテストしてみる気になって、探し出して着て。
なんで使わずにいたか。メバチくんのバッテリーがすぐに弱ったからです。
降りてあれこれを外す儀式を終えて、携帯電話の Bluetooth ペアリングを試みたり。
ようやく出発したのは 8 時ちょうど。(^o^;)
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