都電が呼び覚ます遠い記憶
都電の線路沿いというと、ぽてちが馴染み深いのは東池袋四丁目から向原を挟んで大塚駅まで。ばあちゃんの家がサンシャイン 60 の根本にありまして、その影響です。
ばあちゃの家は、終戦間際の頃にできたアパートでした。周りが空襲の焼け野原だった終戦当時としては超立派な2階建てで、なんと!電気が点いた。スゴ!!!
そしてなんとなんと!半水洗共同トイレと共同風呂まであった!!!!! 破格の超豪華住宅だったそうです。
子ども心には、築後 20 年以上を経た建物に対して、好ましく感じていませんでした。木造で戦中の造りです。薄黒く汚れていて埃っぽく、薄暗い。歩くと廊下も階段もギシギシいうし、廊下を奥に進むと使われていない部屋があって、そこは廃墟のよう。共同風呂跡も、埃まみれのここは何だろう?と。
そして深度の浅い丸ノ内線が通る度に、ゴー!っと建物が共鳴していました。
共同トイレは臭く、固体は 50 cm ほど下に ぼとっ。前の人のイチモツが残っているのが普通で、共同の大きな流しで水を流す人がいると、ようやく流れ去っていく。その流路を駆け去るネズミをよく見ました。ちなみに、炊事も手洗いも、トイレ隣りの共同流しです。
建物周りの敷地は土で、共同の物干しスペースがあって、1階の部屋の前は植木や花で占有されていた。そこここに穴があって、もぐらの後姿を見たこともあります。
これ、都下といった地域でなく、サンシャイン 60 のすぐ近くのこと。サンシャイン 60 ができた後でまで、のこと。
敗戦前後の混乱期を知らない ぽてちには、破格の豪華住宅だったことを推し量る術はありません。なんか、怖かっただけでした。
「焼け野原にぼつんと建つ破格の住宅に、どうして入居できたのだろう?」 後に思ったわけですが、そこらへんの事情は今も知りません。推測するのみ。
ちなみに、入居当時は都営だったそうです。後に共同で買い取ったそうですが。
で、推測。微かに覚えている じいちゃん、長いこと寝たきりだったそうで、窓際の布団に寝ていて逆光のシルエットを覚えているだけの じいちゃんです。倒れる前は徴兵で近衛師団にいたとか。もちろん士官でなく兵で、門衛に立っていたそうな。
入居は空襲の後。大通りの向こうにあった家が燃えて、その後に入ったそうな。わずかに聞いたそんな状況からして、病気退役した元近衛兵への、師団の手配りがあったのではなかろうか?と。
そうでもなければ、焼け野原にぼつんと建つ垂涎の公営アパートに、一介の寝たきりトタン職人が入れるものじゃないでしょう。
時代と世相を推し測りつつ行った推測です。全然違うかもです。
時代と言えば、ばあちゃんち、戦後少したった頃まで居候がいたそうな。居候ってほんとに存在していたんだ~と、驚きました。
叔父曰わく、まさに寅さんのようなキャラだった。「好きなもの買って食え!」と投げ渡された財布はいつも空だったそうです。(笑)
ぽてちも3度ほど会ったことがあります。で、30回くらい聴かされた話し。「シベリア抑留から解放されて戻ってきたとき、上野駅にお父さんとお母さんが迎えに来てくれていた。涙が止まらなかった。」
このアパート、ぽてちが大学生だった頃にとり壊されました。バブルが盛ってきた当時流行した「等価交換方式」というやつで、スゴ!背高のマンションになったのです。
都電荒川線沿線に残っていた敗戦前後を思わせるこういうアパートや工場は、バブルの到来とともに消えて行きました。
区役所近くの似たようなアパートに住んでいたおばあちゃんたちは、どこに行ったのだろう。今も時おり、頭を過ぎります。
都電が呼び覚ます、遠い日の淡い記憶。タイムマシンで半世紀飛んで行ったら・・・ そこで繰り広げられる光景に、涙が止まらないのでしょうね。
東京の、ほんまもんの庶民の暮らしの情景にまつわるこの思い。かつて駒込にいたという某お方は、似たような情景が記憶にあったりして。どこかしら理解してくれるかしらん。(^_^)
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コメント
呼んだ?
投稿: にゃびのまま | 2012.01.26 22:30
小声でちょっと。(笑)
投稿: ぽてち | 2012.01.26 22:31
都電の思い出だけは山ほど。
滑る木の床や当時、幼稚園の遠足は根津から都電で上野動物園、買い物も都電で上野アブアブ..
浅草の思い出は子供のころ、傷痍軍人がいると怖くて浅草に行くのが嫌でしたね。
投稿: にゃびのママ | 2012.01.27 22:47